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弘源寺について

諸堂

本堂

本堂は客殿形式で寛永年代の造営です。正面中央には本尊観世音菩薩、右側に開山である玉岫禅師木像、左側に開基である細川右京太夫持之公の位牌を祀っています。 柱に残る刀傷は、京都御所蛤御門の変(1864)に際し天龍寺に陣を構えた長州藩の軍勢が、血気に逸り試し切りなどをしたものです。
本堂

毘沙門堂

毘沙門堂の正面扁額は弘法大師の直筆で、天井には日本画家初代藤原孚石筆による四季草花48面の絵画が有ります。
毘沙門堂
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本尊
当寺では、聖観世音菩薩を本尊としています。聖観世音菩薩とは、いわゆる観音様の事です。経典のひとつ「観世音菩薩普門品偈」には、観世音菩薩が、この世界を生きる全ての人々の苦しみの声を聞き、相手に応じて三十三の姿に変身して救う事が説かれています。そのため、聖観世音菩薩には、様々な仏様としての別名があります。当寺の本尊は、右手は垂下して施無畏印を結び、左手には蓮華を挿した華瓶(けびょう)を持つお姿をしています。
十一面観音菩薩坐像
歴史 弘源寺(こうげんじ)は臨済宗天龍寺派大本山天龍寺の塔頭寺院です。 永享元年(1429)室町幕府の管領であった細川持之公が、天龍寺の開山である夢窓国師の法孫にあたる玉岫禅師を開山に迎え創建し、持之公の院号をもって弘源寺の寺号としました。細川家は清和源氏の流れをくみ、足利家より分かれた細川家9代が当寺の開基持之公にあたります。 創建当時は小倉山の麓に位置し北は二尊院、南は亀山にいたる広大な寺領を有していましたが、幾度かの火災に遭遇し変遷を重ね、明治15年に末庵である維北軒と合寺しました。
  • 大本山天龍寺

    大本山天龍寺

    弘源寺は大本山天龍寺の塔頭寺院のひとつです。
  • 玉岫禅師

    玉岫禅師

    夢窓国師より三世の法孫にあたる 禅師。弘源寺を開山されました。
  • 細川右京太夫持之公

    細川右京太夫持之公

    永享元年(1429)に細川右京太夫持之公が玉岫禅師を開山に迎え、当寺、弘源寺を創建いたしました。

長州藩 幕末の刀傷

池田屋事件がきっかけになり、その後に起こる蛤御門の変(1864年8月20日)の際に、長州藩士が天龍寺、弘源寺などへ逗留いたしました。
その際の長州藩士の試し切りなどの傷跡が、当寺の柱のあちらこちらに残っております。

『池田屋事件』…幕末の1864年7月8日(元治元年6月5日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。
『蛤御門の変』…京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。
幕末の刀傷

竹内栖鳳ゆかりの地

近代日本画の先駆者で、画歴は半世紀に及び、戦前の京都画壇を代表する大家である。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。

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竹内栖鳳ゆかりの地

向井去来の墓

向井去来 慶安4年(1651年) - 宝永元年9月10日(1704年10月8日)
江戸時代前期の俳諧師で蕉門十哲の一人に挙げられます。
儒医向井元升の二男として長崎市で生まれました。武芸に優れていましたが、若くして武士の身分をすて誹諧の道に進みました。
。松尾芭蕉が『嵯峨日記』を執筆した京都嵯峨野の落柿舎(らくししゃ)に住み、野沢凡兆と共に蕉風の代表句集「猿蓑」を編纂しました。

※向井去来が暮らしていた「落柿舎(らくししゃ)」の裏の弘源寺墓地にあります。
弘源寺本堂より徒歩10分。
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